2021-01-01から1年間の記事一覧

母は奇跡の人(2)

母が十五歳(一九四五年)の時、広島に原爆が落ちた。高等科だった母は観音町へ介護の手伝いに行った。そこには悪臭の中、被爆して苦しんでいる人達が大勢いてまるで生き地獄だったと母は言っていた。高等科卒業後は裁縫の習い事等していたが二十一歳の時、親…

母は奇跡の人(1)

母は三次市高杉町上杉にて一九三〇年三月二十七日、山田清四郎(父)とキサノ(母)の元、三女として産まれた。(姉二人、弟一人、妹二人) 物心ついた頃より聞いた歌はすぐ覚えてしまうほど歌が大好きな子供だった。四歳の頃、生死をさまよう程のジフテリアにかか…

守りたいメモリーズ

先日、(二〇二一年、四月二十七日)広島テレビの「テレビ派」という番組の『守りたいメモリーズ』というコーナーで思いがけず愛(長女)がインタビューを受けそれがテレビ放送された。「あなたの携帯の中に保存された写真をみせて下さい。あなたの守りたいもの…

母とハグ

最近、心がけている事がある。一日一回は母とハグする事、最初は照れ臭い気がしたけれど思い切って実行してみたら意外といい感じだった。私より背が高かったはずの母が瘦せて小さくなっていた。私がギュッとすると母もギュッと返してくる。なかなか母に接し…

施設でのお花見ドライブ

昨年に続き今年もコロナの影響で毎年行われていた家族参加のお花見行事は無かったが利用者のみで何日かに分けてお花見ドライブを実行して下さった。桜の時期は過ぎていたが行き先は高宮の「香六ダム公園」方面で車の中から春らしい景色を眺めて楽しんだよう…

真夜中の転倒

いつになく良く眠れる夜だったが母の呼び声で眼が覚めた。時計を見ると午前四時前だった。急いで母の部屋に行くと母は下半身はすっぽんぽんの状態で一生懸命敷パットが濡れたと言ってティッシュペーパーで拭いている。拭きながら「大事をした。転んでお尻を…

失禁、失禁、失禁

夜中のトイレはベッド脇のポータブルトイレにするのだが、最近の母は失禁する事が増えてきた。ポータブルトイレには自分で起きて行くのだがズボンやパンツを下すのが間に合わずパンツ(尿取りパットを張り付けている)やズボン、ズボン下(寒がりの母はズボン下…

朝方の腹痛騒動

誕生日を無事に迎えた翌日の朝方五時過ぎ母の私を呼ぶ声で起こされた。驚いて母の所に行くと「お腹が痛い」と苦しそうな顔をしている。いつも母は左脇腹の痛みの訴えがあるので「またか」と思った。ベッド脇のポータブルトイレには排便した跡があったので便…

母、九十一歳になる

二〇二一年、三月二十七日、母はついに九十一歳の誕生日を元気で迎える事が出来た。父が九十一歳で亡くなったのでそれまでは生きたいと以前言っていた事があるのでその目標は達成できた。感謝、感謝。昨年、九十歳になる二日前に娘家族が来ていてその時『す…

母に出来る事

母の出来る事が年々減って来た。脳梗塞や大腿骨の骨折後はさすがに畑仕事はしなくなったが二~三年前までは暖かい日は外に出て草取りをしていた。ずっとやってきた事なので周りに草が生えていると気になってしょうがないようでいつも気にして調子の良い時は…

二〇二一年を迎えて

無事、二〇二一年を母と迎える事が出来た。認知症の母を理解しなければと思いながらもついイライラして母に当たってしまう事があり又やってしまったと自己嫌悪に陥る事が多々あり、これからはいつも母に優しく接していこうと新たに誓う私だ。だがいつもこの…

二〇二〇年を振り返って

二〇二〇年を振り返るとコロナ(新型コロナウィルス感染症)で始まりコロナで終わった一年だった。平成から令和に変った新しい時代の幕開けに期待したのもつかの間、色々な事が自粛となった。当然ながら施設の家族ぐるみの行事はすべて中止となった。お花見、…

母と月

母は月を眺めるのが大好きだ。調子が良い日は夜になるとトイレの後、縁側に行き窓から空を覗き月が出ていれば興奮して私を呼び「月がきれいに出ているよ。見てごらん」と言うのだ。その時の母は子供みたいに月を見てはしゃぎ「月が見てごらん。二つも出てる…

九十歳の記念アルバム

カラーセンター(写真館)でアルバムのサンプルを作成するという事で母の通う施設から希望者を募る案内が来た。色々な公共施設に置いても良いという条件を呑めば無料で作成してくれるというので早速、母の卒寿の記念になるとお願いしてみる事にした。まずは母…

母、九十歳になる

二〇二〇年、三月二十七日、母はついに九十歳(卒寿)の誕生日を迎える事が出来た。最初は八十八歳まで生きるのが目標でそれを無事に迎えた後は今度は九十歳まで生きるのが目標になっていた。毎日、「あこが痛い、ここが痛い」と不調を訴えることが多く「長生…

賑やかな年末年始

二〇十九年の年末は娘が結婚して初めて婿殿も一緒に家族で二十八日から泊りがけでやって来た。今まで婿は年末年始が仕事だったが翌年から職を変えたので実現したのだ。いつもは娘と孫達だけで年が明けてから来ていたが今回は年末から娘家族と一緒で年明けも…

四回目の八朔狩り

「今年はもうよう行かんじゃろう」と八朔狩りに行く事があまり乗る気ではなかった。私も無理強いは出来ないので施設には参加の申し込みをしておいて様子をみる事にしていた。一週間前になって再度確認してみると「前回、帰る時車酔いして気分が悪くなってし…

母のこだわり

退院後も何とか家での生活は今まで通り出来たが入院前に比べると認知力が落ちてきたように思う。以前よりもさらに言語障害がひどくなり身近の人の名前や物の名前が出てこなくなってきた。文章を書くのも難しくなり一年前は箇条書き程度だが日記らしきものも…

三度目の脳梗塞

二〇十九年(令和元年)八月二十三日、この日はデーサービスに行きいつもと変わらず元気そうに帰って来た。お茶を飲んで少し施設での話しをした後、廊下を押し車を押して歩いていたが気付いたら廊下の隅に置いてある椅子に腰掛けてウトウトしていた。デーサー…

圧迫骨折

姉達が帰って行ってから二週間位経った六月の中旬頃、母が腰の痛みを訴えて起き上がるのも困難になったきた。あまりにも痛がるので整形外科を受診してみた。レントゲン撮影してもらうと『圧迫骨折』との事だった。先生の診断によると尾てい骨辺りが骨折して…

恒例の湧永庭園

父の三回忌法要などで姉達が吉田に年二~三回程度は吉田に来ていたがどうせ来るなら気候が良い時がいいね!という事で薔薇の開花時期に合わせて姉妹が集まることにした。二〇十九年(令和元年)五月、母は令和の年を何とか元気で迎える事ができた。最初、予定…

母、八十九歳になる

二〇十九年、三月二十七日、母八十九歳の誕生日を無事に迎える事ができた。その頃には入院前のように夜、一人でポータブルトイレを使用できるようになっていた。私は一緒の部屋で寝ているとどうしても寝不足になるのでその頃から離れの部屋で寝るようにして…

二度目の脳梗塞

明けて一週間、この頃の私は母の完全看護で寝不足が続きヘトヘトになっていた。一月七日は骨折のその後の様子を見てもらう為病院に行くことになっていた。整形外科で待っている間、どうも母の左側に力が入らず立位や歩行が不安定なので脳神経外科も受診して…

左鎖骨骨折

家に連れて帰った日の夕方だった。母には「トイレに行きたくなったりしたら声をかけて」と言っておいたが、丁度、私が他の用事をして目を離した隙に母は自分でトイレに行こうとして立ち上がり転んでしまったようだ。「前に突っ込むようにして転んで思い切り…

一泊二日の入院

それはある日突然だった。二〇十八年十二月二十八日、朝、何時ものように起こしに行くと、起き上がるのが難しそうで左手や左足に力が入らずよだれも出ている。直ぐにおかしいと思ったが支えると何とか起き上がり何とか支えて台所まで歩けた。ご飯も時間がか…

母との生活

大阪から帰った翌日、二〇十八年二月二十六日、母を施設に迎えに行っていよいよ母との二人の生活が始まった。と言っても時々私の用事がある時はデーサービスは利用していた。家で生活するようになって母も少し落ち着いてきたようだった。私も仕事との両立か…

米寿のお祝い

二〇十八年、三月二十七日、母は無事に米寿の誕生日を迎える事が出来た。三月はまだ肌寒かったので暖かく気候の良い五月に娘三人で母のお祝いをする事になった。母は以前から実家のある三次に行き亡くなった両親、お姉さん達や弟の墓参りがしたいと言ってい…

私の定年退職

二〇十八年二月、私は遂に定年退職した。定年を迎えた二月、大阪の姉が定年のお祝いに大阪に招待してくれた。二月二十三日から二十五日迄二泊三日の予定で高速バスを利用して大阪に向かった。午前十一時頃大阪に到着し姉の家で昼食を摂った後、早速、『小林…

夜勤明けの楽しみ

仕事をしている時は休みの日は施設から母を連れて帰り家でゆっくり過ごすことが殆どだったが夜勤明けの日が二十六日だったら母を迎えに行ったその足で隣町の温泉に入ってお昼ご飯を食べて帰るのが楽しみの一つになっていた。二十六日はお風呂の日でその温泉…

施設の行事

母は施設に行く事を好んでいなかったが、私は母の利用している施設が気に入っていた。年間何度か家族参加の行事があり私はこれがとても楽しみなのだ。春はお花見に始まり、敬老会、秋祭り、八朔狩り等、利用者の家族参加の行事が年何度かあるのだ。私は仕事…