母は奇跡の人(2)

母が十五歳(一九四五年)の時、広島に原爆が落ちた。高等科だった母は観音町へ介護の手伝いに行った。そこには悪臭の中、被爆して苦しんでいる人達が大勢いてまるで生き地獄だったと母は言っていた。高等科卒業後は裁縫の習い事等していたが二十一歳の時、親戚の紹介でお見合いをして安芸高田市(旧高田郡)吉田町の今井二郎の元に嫁いだのだ。母は結婚前に一度だけ相手の顔を見ただけだった。結婚当初はお舅、お姑、小姑四人の大家族の中、悪戦苦闘した母だったが三人の娘に恵まれ段々と逞しくなっていった。三女が産まれてまもなくすると営林署に勤め始め定年後は畑仕事をしながら百三歳で亡くなったお姑さんを百二歳まで自宅で看ていた。そんな母だが八十五歳を過ぎた頃から膝の骨折、圧迫骨折、原因不明の痙攣等に悩まされるようになった。一番の打撃は脳梗塞で倒れた事だった。更に追い打ちをかけるように退院後すぐに転倒してしまい大腿骨頸部骨折してしまった。医師からはもう自宅での生活は難しく車椅子生活になると言われたが自宅に帰りたい一心でリハビリに励み何とか杖をついて歩けるようになりデーサービスを受けながら現在私と一緒に自宅で生活している。(その後二回脳梗塞になる) 昭和、平成、令和と生き抜いてきた母、子供三人、孫七人、ひ孫は十四人になった。現在九十一歳になった母は本になるほど波乱万丈の人生だったと言っていた。そして今も脳梗塞の後遺症、骨折の後遺症、認知の症状と闘いながら日々頑張っているのである。                  まだまだ続くがひとまずおしまい