左鎖骨骨折

家に連れて帰った日の夕方だった。母には「トイレに行きたくなったりしたら声をかけて」と言っておいたが、丁度、私が他の用事をして目を離した隙に母は自分でトイレに行こうとして立ち上がり転んでしまったようだ。「前に突っ込むようにして転んで思い切り左肩を打った」と言う。直ぐに左肩の周りを見てみたが少し赤くなっている程度だった。「痛いが何とか我慢が出来る」と言っているし腫れもなかったのでもう暫く様子を見る事にした。こんなことなら病院から連れて帰るんじゃあなかったと後悔した。これはいよいよ目が離せないぞと思い、夜は一緒の部屋で寝ることにした。以前、母が元気だった頃は母屋と続いた離れの二階に寝ていたが、脳梗塞になってからは様子が直ぐ分かるように離れの一階で寝るようにしていた。が、今回は離れて寝るわけにはいかなかった。これからは本当に大変だった。夜、数回トイレに起きるのでその度に介助が必要で元々不眠症の私は殆ど眠れなかった。しかも転倒した日の夜は、肩の痛みの訴えが無かったが翌日三十一日は「痛い、痛い」と一晩中痛がるのだ。三十一日は子供達も来る予定がなかったので年越しそばを食べて母とのんびり紅白歌合戦を見るはずだったのにとんだ年末年始となってしまった。六十年間生きてきて一番最悪の年明けだった。一月一日は午後から長男家族が来ることになっていたがそれまで待てそうにないので佑樹(長男)に連絡して午前中来てもらい病院に連れて行ってもらった。駐車場までは母を佑樹がおんぶしてくれた。事前に病院には連絡しておいたのであまり待つ事なく診察してもらえた。レントゲンを撮ってもらうと『左鎖骨骨折』との事でうまく骨がつく様に固定の装具を付けることになった。この固定の装具はこれから二ヶ月位装着する事になり母にはかなりのストレスになってしまった。帰りも佑樹が病院の玄関に車をつけてくれ家までは又、おんぶして連れて帰ってくれたので本当に助かった。今まで何もかも一人でやっていたが二人だとこんなにスムーズに楽に出来るんだと改めて思った。母の介護をする様になってからもう一人近くに協力者がいたらどんなに助かるだろうと何度も思ったものだ。佑樹は一旦可部の自宅に帰り午後から家族と一緒にやって来た。愛(長女)も子供達とやって来た。母の状態を知って愛達は四日迄いて買い物等色々と手伝ってくれ助かった。

                                つづく