朝方の腹痛騒動

誕生日を無事に迎えた翌日の朝方五時過ぎ母の私を呼ぶ声で起こされた。驚いて母の所に行くと「お腹が痛い」と苦しそうな顔をしている。いつも母は左脇腹の痛みの訴えがあるので「またか」と思った。ベッド脇のポータブルトイレには排便した跡があったので便が出たのならそのうち痛みも治まるだろうと母のお腹をマッサージしながら様子をみていたが「腹が破れて痛い」と言っていつまでも痛がる。日曜日で病院が休みなので困ったなと思いながら「救急車を呼んだ方がいい?」と聞くといつもなら「呼ばんでええ」と言うのに「呼んだ方がええかもしれん」と言うのでこれはいつもより痛みがひどいのかと暫く悩んでいたがやはりこのままにしてはおけないと思い一一九番した。外はあいにくの雨降りだった。程なく救急車が到着して吉田総合病院に搬送された。日曜日だったので待合室はガランとしていた。問診の後直ぐに血液検査、CT検査が行われ、痛み止めの点検も施行された。私は待っている間に姉達にだけライン等で連絡をいれておいた。暫く待っていると先生から検査結果の話があった。撮影した画像を見ながら「一番懸念していた腸閉塞等の心配はなく血液検査の結果もまあまあ正常値の範囲内なのでこのまま様子を見ましょう。まだ固い便が残っている可能性もあるので便が緩くなる薬を出しておきますので家で様子をみてまだ痛むようなら改めて来院して下さい」との事だった。点検があと一時間位かかるという事だったので私はその間、母の靴や上着を取りに一旦家に帰った。姉達にも問題なかったので安心するようにと連絡を入れた。いつも母はお腹の痛みを訴えるけど検査をしたらいつも異常がなく治療のしようがないのでこの事が介護をするうえで私の一番の悩みである。原因不明の腹痛を困ったもんだと腑に落ちなかったがまずは異状がない事を喜ぶべきだろうと思う事にした。朝からの雨は止んでおらず家に連れて帰るのも駐車場から家まで細い坂道を歩いて帰らなければならず大変だったが母にはレインコートを着せて何とか連れて帰ることが出来た。その後は昼食も夕食も変わらず食べてくれたのでひとまず安心した。いつもの私は夜中何度も目が覚めるのだがその夜は不思議と朝五時頃まで良く眠った。直ぐに母の所へ行くと母も寝息を立てて良く眠っていた。                つづく

母、九十一歳になる

二〇二一年、三月二十七日、母はついに九十一歳の誕生日を元気で迎える事が出来た。父が九十一歳で亡くなったのでそれまでは生きたいと以前言っていた事があるのでその目標は達成できた。感謝、感謝。昨年、九十歳になる二日前に娘家族が来ていてその時『すずちゃん 九十才の お誕生日 おめでとう』のメッセージを画用紙にカラフルなペンで描いて作ってくれていた。それをとっておいたのでそれの年齢だけ変えてそれをバックに母と二人で自動シャッターで記念撮影をした。裏山から取ってきた桜の花や庭に咲いた水仙の花も傍に飾って撮ったので二人きりの写真も華やいでいい感じに撮れた。姉達や子供達にもラインで写メすると「お母ちゃん、元気で幸せそう」「おばあちゃん、元気で幸せそう」とそれぞれ返信があった。八重子姉ちゃんからはラインで豪華な誕生日スタンプ、英子姉ちゃんからは誕生日カード、娘家族からはお祝いメッセージを動画で送ってくれた。又、施設でもお祝いして下さるという事で誕生日の日はデーサービスに行ってお祝いしてもらった。母の担当の職員さんからはお誕生日カードと手作りのハーバリウムをプレゼントして下さった。母と二人きりの生活だと只単調に過ぎていくだけだが誕生日だとかのイベントの日があると一日が盛り上がる気がする。今年の冬は特に厳しい寒さが続き体調管理が大変だったうえに原因不明の腹痛を訴える事の多い母だが何とか乗り切り、九十一歳の誕生日を迎える事が出来た事、本当に感謝でいっぱいだ。                           つづく

 

母に出来る事

母の出来る事が年々減って来た。脳梗塞や大腿骨の骨折後はさすがに畑仕事はしなくなったが二~三年前までは暖かい日は外に出て草取りをしていた。ずっとやってきた事なので周りに草が生えていると気になってしょうがないようでいつも気にして調子の良い時は「足が痛い」と言いながらも草取りをしていた。手の届く所なら剪定もしていた。今では家に居る時は外へ出る事は全くしなくなった。塗り絵もなかなかの腕前できれいに塗っていたが最近は簡単な塗り絵も難しくなったようで「どれを塗ったらいいん?」と聞くので「見本を見ながらこっちの塗ってない方を塗るんよ」と言うのだが「どっち、どっち?」と何回も聞いてきて何とか塗り始めたと思ってよく見ると見本の絵の上を一生懸命塗ったりしている。何回説明しても良く分からないようなので機嫌よく塗ってるならいいかと思って今ではそのままにしている。「『天風録』は塗り絵より書き写すだけだから簡単だ」と言うので新聞の記事を切り抜いて拡大コピーすると「よう見える」と喜んで熱心に書き写していたが今ではそれも出来なくなった。テレビも「何を言ってるのか分からん」と言って全く見ない。母は施設より家が良いと言うけれど家に居ても母の楽しめるものがなく何かないかなと私も思案するがなかなか見つからない。しかも何か出来る事があったとしてもすぐに「お腹が痛くなった」とか「しんどくなった」と言ってやり続けるのも難しくなっている。「早う死んだ方がましだ」と言ったり「死ぬのが怖い」という事もある。私はそんな時何と答えたら良いのか分からない。残り少ないであろう母のこれからの日々を少しでも楽しく穏やかに過ごして欲しいと願っているが何をしたら良いのか私自身も分からない。只、淡々と日々を過ごしているだけだ。今年の冬は殊の外寒さも厳しく自分では体調管理が出来なくなった母の体調を崩さないよう配慮するのも大変だった。ずっと二人きりの生活で変化もなく余計に母は退屈し年々認知症も進んできている。母に残された出来る事がこれ以上減らないよう願いながらもうじき迎える母の九十一歳の誕生日(三月二十七日)を元気で迎える事をまずは目先の目標にして日々過ごしている。                つづく

二〇二一年を迎えて

無事、二〇二一年を母と迎える事が出来た。認知症の母を理解しなければと思いながらもついイライラして母に当たってしまう事があり又やってしまったと自己嫌悪に陥る事が多々あり、これからはいつも母に優しく接していこうと新たに誓う私だ。だがいつもこの繰り返しだ。学習能力のない私である。母は認知と言っても感情は衰えてないので嫌な事も辛い事も痛みもハッキリ分かる。自分が今まで出来ていた事が出来なくなったのもしっかり分かるので「つまらんようになった。情けない」と嘆いて苦しんでいる。けれど今の事を今すぐ忘れて何回も聞いてくる。私の話が全て理解出来ている訳ではなく何度説明しても「わからん、わからん」と言う。おまけに急に事が変わるとパニックをおこしてしまう。傍にいる私までどう対応して良いのか分からなくなる。だからつい声を荒げてしまう。そんな時は私の気持ちがエスカレートしないようその場から逃げる事にしている。母と距離を置くと気持ちも落ち着いてくるし、暫くして母の所に行くと母も忘れているのか普通にしているので又、何事も無かったように接する事が出来る。つかず離れず少し距離を置くのがベストだ。デーサービスを嫌がる母だがデーサービスに母が行ってくれることにより私はリフレッシュ出来て、私の平常心の持続が出来ている。嫌がる母には申し訳ないが施設様様である。

                               つづく

二〇二〇年を振り返って

二〇二〇年を振り返るとコロナ(新型コロナウィルス感染症)で始まりコロナで終わった一年だった。平成から令和に変った新しい時代の幕開けに期待したのもつかの間、色々な事が自粛となった。当然ながら施設の家族ぐるみの行事はすべて中止となった。お花見、秋祭り、敬老会などの行事を私はとても楽しみにしていたので残念でならなかった。もっとも今の母は施設の行事に関心がないので(施設自体に行きたがらないので)どうでもいいのかもしれないけれど。そんな中でも施設最大のイベントの因島の八朔狩りは利用者のみの参加で実行して下さった。母は相変わらず気乗りがしないようで「車に酔うから」などの理由を言って「行かない」と言っていた。私も無理強いはしないように母には「行きたくないなら仕方ないね」と言いながらも内心は参加して欲しかったので酔い止めの薬などを用意して行ける準備はしておいた。すると何とか当日は渋々ではあるが参加してくれた。今回で五回目の参加だ。施設では全員をいっぺんには連れていけないので何日かに分けて連れて行って下さった。幸い母が参加した十二月十二日は師走にしては珍しく暖かい天候に恵まれ最高の八朔狩りとなった。行く時は気乗りしない母もにこやかに帰って来て「一緒に行った職員の男の子がとても親切で八朔をいっぱい取ってくれた」と喜んでいた。いつも母はそんな感じだ。嫌だと言いながらも行った後は結構喜んでいる。だったら最初から素直にしてくれたらと私はいつも思ってしまう。何はともあれ毎年今回が最後かもと思いながらもなんとか今年も元気で八朔狩りに行けた事がほんとに有難かった。そしてこの一年間コロナはもちろん風邪などもひく事もなく入院もする事なく過ごせて何よりだった。まぁ、年々認知症の症状が進む母に振り回される私は戸惑う事が多くなってきているけれどね。この年末はコロナ禍で娘家族は帰省せず母と二人きりではあったがその分ゆっくりと過ごせた。来年も母が元気で過ごせる事を祈っている。                        つづく

 

母と月

母は月を眺めるのが大好きだ。調子が良い日は夜になるとトイレの後、縁側に行き窓から空を覗き月が出ていれば興奮して私を呼び「月がきれいに出ているよ。見てごらん」と言うのだ。その時の母は子供みたいに月を見てはしゃぎ「月が見てごらん。二つも出てるよ」と嬉しそうに言う。もちろん月が二つある訳がないのだが母は目が悪くなっているのでぼやけて二つに見えるのだろう。私も近視なので肉眼で見ると二重にぼやけて見えるので特に否定せず「ほんとだ。二つ月が出て綺麗だね」と母に合わせるのだ。以前月は一つしかないと説明した事があるが今の母は理解してくれないので母に合わせる事に決めたのだ。この時の母はほんとうに嬉しそうでまるで子供みたいで可愛い。私まで嬉しくなってくる。母は九十歳を過ぎてからかなり認知も進んできており幻覚も見えるのか訳の分からない事を言っては私を困らせる事が増えてきて母の介護にストレスを感じるのだがこんな無邪気な母を見ると癒されて日頃のうっぷんが消えるのだ。母は折角家に居ても痛みの訴えが多いのでいつもこんな母だったらと思っている。私も元々月が大好きで特に満月には不思議な魅力を感じている。最近はゆっくり月を眺める事もなかったなぁと思い母と月をゆっくり見る時間を大切にしたいと思っている。

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九十歳の記念アルバム

カラーセンター(写真館)でアルバムのサンプルを作成するという事で母の通う施設から希望者を募る案内が来た。色々な公共施設に置いても良いという条件を呑めば無料で作成してくれるというので早速、母の卒寿の記念になるとお願いしてみる事にした。まずは母の古い写真を探す所からスタートだ。以前から母が小学校一年生位の時撮ったお稚児さんの写真が見つからないと言っていたので家中を一日がかりで探し回った。思いつく心当たりの所はすべて探したがついに見つからなかった。残念でならない。母の実家には母の小さい頃の写真が残っているかもしれないと実家に連絡を取ってみたが連絡が取れず、そのうち新型コロナウィルスの拡大で自宅で自粛するという緊急事態になった為、三次の実家に訪問する事も出来なくなりやむなく諦めた。家にあるアルバムの中で色々集めてみた。中には母が何歳の時の写真か分からないものもあったので母に尋ねてみたが今の母は記憶が定かではなく分からなかった。それで大阪の八重子姉ちゃんにラインで写メして聞いてみたら年代が分かって来た。そればかりか我が家にない懐かしい昔の白黒写真を何枚かラインで送ってくれた。これで結婚前の写真はないものの母がお嫁に来てまだ若かった頃、母と写った私達の小さい頃の写真が何枚か揃った。写真をアルバムに載せる順番を決めたり写真にコメントを付けたりの作業をするのはとても楽しかった。物忘れの多くなった母も昔の記憶は残っており古い写真を見ながらひとしきり昔話に花が咲き盛り上がった。いつも痛みの訴えの多い母だがこの時ばかりは懐かしそうに笑顔でおしゃべりしていた。サンプル用の写真は三十枚との事だったが色々集めると七十枚位になったので折角作るなら全部載せたいと思い差額分を支払う事で了承してもらい我が家用を作ってもらう事にした。思いがけず母の九十歳の歴史をアルバムにする事が出来て本当に良かった。母もとても喜んでくれた。

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