母、九十歳になる

二〇二〇年、三月二十七日、母はついに九十歳(卒寿)の誕生日を迎える事が出来た。最初は八十八歳まで生きるのが目標でそれを無事に迎えた後は今度は九十歳まで生きるのが目標になっていた。毎日、「あこが痛い、ここが痛い」と不調を訴えることが多く「長生きはようせんじゃろう」といつも言っていた母だがなんと九十歳の目標を達成出来たのだ。めでたし、めでたし。丁度母の誕生日の二日前に娘家族が来たので「すずちゃん 九十才の おたんじょうび おめでとう」のメッセージを画用紙に描いてもらってそれをバックに母と記念撮影をしてお祝いした。孫(ゆいとゆあ)がお祝いの絵をプレゼントしてくれた。母の誕生日の二日後には次男家族がやって来たので又もや画用紙に描いたメッセージをバックに記念撮影をした。次男達がケーキを買ってきてくれたのでケーキを食べながらささやかにお祝いも出来た。私は長寿枕と靴をプレゼントした。姉達からも塗り絵やお祝いメッセージが届いた。この頃丁度、新型コロナウィルスが世界的に発生し拡大して今まで経験した事がない緊急事態で小中高と休校になっており色々対策が取られている中、無事に誕生日を迎えられた事はとても有難い事だ。特にお年寄りが重体になる確率が高いというので今後これ以上拡大する事無く早く終息してくれる事を祈るばかりだ。最近の母は「もう、長うない、長生きは出来ん」が口癖になっている。しかし、九十歳まで生きているのだからもう十分長生きだと私は思っている。

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賑やかな年末年始

二〇十九年の年末は娘が結婚して初めて婿殿も一緒に家族で二十八日から泊りがけでやって来た。今まで婿は年末年始が仕事だったが翌年から職を変えたので実現したのだ。いつもは娘と孫達だけで年が明けてから来ていたが今回は年末から娘家族と一緒で年明けも賑やかに迎える事が出来た。紅白歌合戦も娘達と最後まで久々に見る事が出来た。(母は途中で寝てしまったが) 思えば昨年の年末年始は母の左手足に力が入らず全介助でないと歩くことも出来ず紅白歌合戦どころではなかった。今回の年末年始は母が元気で過ごせたことが何より嬉しかった。元旦には長男家族もやって来て更に賑やかになった。夕方には娘家族も長男家族も帰って行ったので急に淋しくなったが母が新年を元気で迎えられたことが只々嬉しかった。令和になっての初めてのお正月は子供達孫達が帰った後は母とのんびり過ごした。これからも毎年こうして穏やかに過ごせることを願っている。

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四回目の八朔狩り

「今年はもうよう行かんじゃろう」と八朔狩りに行く事があまり乗る気ではなかった。私も無理強いは出来ないので施設には参加の申し込みをしておいて様子をみる事にしていた。一週間前になって再度確認してみると「前回、帰る時車酔いして気分が悪くなってしんどかったので行かない」と言う。忘れる事の多い母はこういった嫌な体験はよく覚えているのだ。急にキャンセルして施設に迷惑をかけてはいけないので、一応施設には行けないかもしれないと事情を説明しておいてキリキリまで待って頂く事になった。すると二日前になって「やっぱり行かんにゃあいけんじゃろう」と言い出した。施設の方では酔い止め薬を用意しておくのでと快く対応して下さった。私も「来年は行けるかどうか分からないので行ける時には行こう」と勧めた。こうして四回目の八朔狩りに親子二人で参加させて頂く事が出来た。毎回、最後かもしれないと思いながらも四回も参加させて頂いた事に感謝でいっぱいになる。母はいつも施設の行事の参加を渋るけど私は個人的な外出を好まない母を連れて出かける事がないのでこうした施設の行事は大変有難く楽しみにしている。行く前は気乗りしない母も行ったら結構楽しんでいるのだ。足が痛いのも忘れて八朔狩りに夢中になっている。行き帰りの車の中でも海が見えた時などは喜んでいた。又、来年も母と行ける事を祈っている。

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母のこだわり

退院後も何とか家での生活は今まで通り出来たが入院前に比べると認知力が落ちてきたように思う。以前よりもさらに言語障害がひどくなり身近の人の名前や物の名前が出てこなくなってきた。文章を書くのも難しくなり一年前は箇条書き程度だが日記らしきものもボチボチ書けていたが今は全く書こうともしない。直ぐに思い出せないと言って施設の職員さんや利用者さんの名前を書いたメモをカバンに入れて持ち歩いていて、話をしていて思い出せない時はそのメモを見て施設での様子を話すようになった。「前には出来よったのに日に日につまらんようになった」と落ち込むことも多くなった。又、施設でみんなと一緒に計算したり漢字を書いたりした時、「みんなはスラスラ出来るのに自分は全然出来んかった」とショックを受けていた。秋祭りの準備で色紙を使ってポンポン飾りを作った時も何べん説明されても分からんかった」と言うので家でも色紙を買ってきて実際一緒にやってみたが一緒にやりながら何度説明しても「分からん,分からん」と言うのだ。本当に簡単な作業なのに目の前でやりながら説明しても理解できなくなったのかと私の方がショックを受けてしまった。排便もスムーズにいかないと言う。乳酸菌を服用するようになってからはぼ毎日排便があるにも関わらず残便感がありスッキリしないと一日中気にかけてその事が頭から離れないようだ。おまけにお腹の周りのゴムがキツイと言ってはパンツやズボンのゴムを抜いてしまうのだ。私はその都度ゆるゆるに直すのだがそれでも尚ゴムがキツイと言っては抜いてしまう。歩くとずれ下がっているにも関わらずだ。最近、認知度が落ちてきた母は説明しても理解してもらえず本当に困ってしまう。毎日がこの繰り返しである。又、異常なほどの寒がりで冬は五、六枚服を重ね着してしまう。ベッドに寝ていても風がスウスウして寒いと言うのでベッドの周りをひざ掛けなどでぐるりと囲ってみるがそれでも風が入ってくるといつも言うのだ。色々な面で母のこだわりが強くなったように思う。

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三度目の脳梗塞

二〇十九年(令和元年)八月二十三日、この日はデーサービスに行きいつもと変わらず元気そうに帰って来た。お茶を飲んで少し施設での話しをした後、廊下を押し車を押して歩いていたが気付いたら廊下の隅に置いてある椅子に腰掛けてウトウトしていた。デーサービスに行った日は気を使って帰ってくるのでいつも夕食までの一時間位横になっているのでベッドに横になるように言うと「わかった」と言ってベッドまで行き服も自分でパジャマに着替えて横になったので私は夕食の準備に取り掛かった。五時半頃部屋を覗くと軽く寝息をたてて眠っていた。いつもと変わらないと思っていた。夕食時間の六時になったので起こしに行くとベッドの上で座っていたのでちょうど起きてて良かったと思い「ご飯にしましょう」と声を掛けた。返事がないので近づいて「お母ちゃん、ご飯よ」ともう一度言うとベッドの上で身体がフワフワしているので驚いて「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼ぶが意識がもうろうとして声掛けに反応がない。初めて脳梗塞になった時の症状に似ていた。直ぐに救急車を呼ぶと母は地元の総合病院に搬送された。六時を回っていたので夜間対応で内科に通され直ぐにCT検査が行われた。結果は異状なしだったが前回の事を先生に話して入院して様子を見てもらうようお願いした。今回は右手、右足に力が入らず反応も鈍いので先生も入院して様子を看る事に同意して下さり金曜日の夜という事で改めて月曜日にMRIを撮る事になった。それまでは『脳梗塞疑い』という事で入院となった。入院の手続きの書類は何度も書いてきたので私も慣れてきていた。一月に入院して八か月振りなので緊急連絡先などは前回のもので対応して下さった。今回の入院も思いがけない事だった。初めての脳梗塞で左半身麻痺の症状はあったものの何とか回復して安心していたが今度は右半身麻痺とは一体どうなるのだろう。脳梗塞には何度もなると聞いていたがこんなに頻繁になるものだろうか等不安でいっぱいだった。翌日、病院に行くと前日に比べて右手の動きも少し良くなっていてしゃべるのも今までと変わらないくらい回復していたので安心した。月曜日になってMRIの検査を受けた。結果はやはり「脳梗塞」との事だった。脳梗塞の治療として点滴を二週間続けて自宅で生活出来るレベルになるようリハビリしながら様子を看る事になり二~三週間の入院予定との事だった。脳梗塞を起こす度に認知度は下がってきたように思うが自分でご飯を食べたりポータブルトイレ等も一人で行けるよう徐々になってきていたのでこれなら何とか自宅に帰って生活出来そうだと期待が持てた。こうして三週間の入院を経て令和元年九月十二日無事退院出来たのだった。

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圧迫骨折

姉達が帰って行ってから二週間位経った六月の中旬頃、母が腰の痛みを訴えて起き上がるのも困難になったきた。あまりにも痛がるので整形外科を受診してみた。レントゲン撮影してもらうと『圧迫骨折』との事だった。先生の診断によると尾てい骨辺りが骨折していて過去の骨折も含めると圧迫骨折も五本目だと言われた。以前受診して二本の骨折は聞いていたが知らない間に他の箇所も圧迫骨折していたらしい。母の骨は骨粗鬆症でもうボロボロなのだ。先生に半年に一度の注射で良く効く骨粗鬆症の注射があると言われたので早速、打ってもらった。と言ってもこれで今回の圧迫骨折が良くなるわけではないので暫く腰の痛みは続くと言われ、痛み止めの薬と湿布を処方してもらった。それから暫くは腰の痛みで起き上がるのが困難な為、夜中のトイレが間に合わず失禁してしまう事も度々あった。母は失禁する事がショックで落ち込む事が多くなったので私は失禁の事はあまり触れないようにしていた。「だんだんつまらんようになった」と母はよくこぼしていた。それでも夜中のトイレは私の手を取る事なく一人でポータブルトイレにしてくれていたので私は助かった。

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恒例の湧永庭園

父の三回忌法要などで姉達が吉田に年二~三回程度は吉田に来ていたがどうせ来るなら気候が良い時がいいね!という事で薔薇の開花時期に合わせて姉妹が集まることにした。二〇十九年(令和元年)五月、母は令和の年を何とか元気で迎える事ができた。最初、予定していた五月末はあいにく母が体調を崩していたので六月三日、姉妹が揃ったので母と一緒にランチに出かけてそれから湧永庭園に行った。今回は見事に薔薇が満開だった。色々な場所で薔薇の花をバックに記念撮影をした。湧永庭園は我が家から車で十分か十五分で行ける場所にありしかも入園料が無料なのだが、今まであまり行く事がなかった。これからは母が元気な限り母娘四人で毎年の恒例行事にすることにした。私も母と二人だとなかなか外出する気になれないが姉達が揃うと行ってみようと思うのだった。本当は一泊二日位でのんびり温泉旅行でもしたいなと思うが母の体力など考えると躊躇してしまう。だが、いつか実現したいと密かに思っている私なのだ。私達三姉妹も今まで子育てや仕事などで忙しく会う機会も殆んどなかった。こうして父が亡くなったり母が年老いてきたことによって再び会う機会が出来た事は両親のお陰かもしれないと感謝している。

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