父、八千代病院入院

二〇十五年、四月七日、八千代病院の方が迎えに来られ入院中の病院からそのまま八千代病院に入院となった。その日は母も一緒に同行した。八千代病院の玄関にはホテルのように豪華な花が飾られていた。到着後すぐに病室に案内された。今までの病室は六人部屋で窮屈だったがそこは四人部屋で広々とした感じだった。父は窓側のベッドだった。山の中にある病院なので外に見える景色は山の木々で家から見る風景とあまり変わりなく殺風景なものだった。主治医の先生から色々な説明を受ける。父はその時、八十九歳の高齢だったので何かあった時の延命処置はしないで下さいとお願いした。ここは父が最期を迎えるまでの場所となった。前日、父は少し熱を出し風邪気味だと聞いていた母は「窓際は寒いので風が悪化せんにゃええが」と心配していた。四月と言えどもまだ肌寒かった。翌々日、パジャマの上に羽織るベストやバスタオル等を持って面会に行くと風邪気味の為、父は点滴を受けていた。体力が弱っているようだったが四月の終わり頃には徐々に元気を取り戻したので安心した。五月一日、父は九十歳の誕生日を病院で迎えた。誕生日なのでプリンを持って行ったが先生から「血糖値が上がるので半分だけ」と言われ、全部食べさせてあげられず残念だった。それからは週一回の面会が父と過ごす唯一の時間だった。爪を切ったり、髭を剃ったりするだけでも楽しかった。糖尿病の治療中なので間食は出来なかったがこっそりと果物やお菓子を食べさせた事もあった。(後に看護師さんにバレて間食は出来なくなったが) 家にいる時は、父と話す事は殆んどなかった。いつも口うるさい印象しかなかった。しかし、入院してからはとても穏やかで優しくなってきていた。私が行くと直ぐにベッドから起き上がり「よう来てくれた」と喜んでくれた。帰る時は「気を付けて帰れよ」と気遣ってくれた。「母さんは元気か?」と母の事も気にかけていた。「ご飯は美味しい」と言っていた。私には家に帰りたいとか困らせる事は一切口にした事はなかった。只、一度亡くなる三ヶ月位前だろうか?「もう一度だけ焼酎が飲んでみたいのう」と言った事があった。先生に相談すれば絶対ダメだと言われるに違いない。この時ばかりは私も暫く悩んで落ち込んだ。結局、「糖尿病の治療中だから無理だよ」と言うしかなかった。今思うと何とかこっそり飲ませてあげれば良かったと後悔が残っている。又、亡くなる一~二ヶ月前位に夜中に「家に帰らんにゃいけん」とベッドから抜け出し不穏になり看護師さんを困らせた事も何度かあったようだ。一度その事で「娘さんが来られると安心されるでしょうから」と連絡があり仕事帰りに駆け付けた事があった。私が行った時は看護師さんの目が行き届くように食堂にベッドごと移動されており、そこで父は大人しく眠っていた。私が声をかけると目を覚まし何事もなかったように「あぁ、来たんか」といつもと変わりない父だった。でもその後、起き上がった父は急に険しい顔をして「あの時はしょうがなかった」と言うのだった。私は何の事を言っているのか分からなかった。看護師さんを困らせた事を言っているのか、夢でも見た事を言っているのか、昔の事を思い出して言っているのか、それは今でも分からない。只その後も私には「家に帰りたい」とは言わなかった。入院した年の十一月頃から「食後に時々フッと意識障害が起き直ぐに回復するけど心配なのでベッドごと食堂に出て食事をしてもらっている」と先生から話があった。それまで父は車椅子に乗ってではあるが自分で操作して食堂まで出ていた。食後も洗面台の所に行き歯磨きもしていた。車椅子の操作を見て上手いもんだと感心していた。面会に行った時は車椅子で一階のロビーまで散歩したりしていたがそれからは車椅子で移動する事が出来なくなり残念だった。段々弱ってきているんだなと思ったら悲しくなった。翌年一月八日には先生の紹介で専門の病院で脳や心臓を検査してもらったが高齢なので手術もリスクがあるという事でそのまま自然に任せることにした。

                                つづく